国際ビジネスコミュニケーション
‐コミュニケーションにおける理解と異文化‐
コミュニケーション
コミュニケーションとは意志疎通である。2者以上の間で、言葉や表情、動作を通じて、意識や感情を共有する。言葉でも、表情でも、動作でも、コミュニケーションを成立させるには、互いに共通の認識がある必要があると思う。「一定のものに対して、既に共通の理解を有していること」がコミュニケーションにおける前提条件だろう。
コミュニケーションにおける言葉への依存性
コミュニケーションでは、事象や感情を表現し、相手に伝える。その最も比重の高い表現が言葉であると考える。そもそも、言葉や表情、動作に発せられる以前に、本人の頭の中での対象の存在が既に、言葉によって成立していると思う。視覚の比重も極めて大きい理解であるが、伝えるにはそれを表現しなければならない。それを念写するのが言葉という手段に現れると思う。感情以外の表現であれば、視覚化することによる疎通が最も容易で正確だとも思う。同じ様に見えているかという点を話すとさらに差違は広がるが、一応2者の目に映っているものが同一であるということは事実だ。しかし、大抵の場合、伝える対象を目に見せることが不可能である。そして、そこにいっさい同じ認識をなすことも不可能である。視覚は表現が困難なのだ。その上で、言葉が現代コミュニケーションにおける最重要要因であるということは、「電話」や「手紙」、「メール」という手段に表れるだろう。この手段はまさに言葉に依存したコミュニケーションだ。「電話」や「手紙(手書きを意味する)」には一応、調子というものが現れるが、「メール」という概念は一切の機械的な単なる記号の羅列にすぎない。このレポートや本といったものも同様、いかに「言葉」の一字一句にどのような意味を込め、どう理解されるかにかかっている。
「言葉」という概念
人々は、「言葉」という存在を、学校で「国語」や「英語」という教科で学んでいる。小学校に入ると、「国語」として、平仮名を書く練習から始まっただろう。しかし、幼稚園の時点で既に、平仮名は理解している子が大多数派ではなかったか。そして、先生は当然、言葉を話して授業を進めていくのだ。すると、子どもたちは、既に易しいながらの言葉を理解していることが前提とされる。そして、当然、幼稚園の頃には、質としては当然劣るものの、平仮名位ならわかるし書ける、漢字を少し位わかる子もいるし、当然、既に会話は成立している。学ぶ前から理解しているのだ。
では、言葉が通じれば話が通じる、意思疎通が可能だととらえていないか。同一の言語を話していれば、共通の理解があるととらえてはいないか。他人に何かを伝えるからには理解してもらうことが重要である。その表現方法として言葉が存在し、言葉はあくまでコミュニケーションにおける氷山の一角と私はとらえている。意志疎通を成立させるための共通の理解の形が言語として表現される。言葉は思考を可視化することによってコミュニケーションを容易にするが、それによって空洞化が起こっているとも思う。伝えたいのはその言葉ではない、その言葉によって表現されるものである。これが、コミュニケーションの難しさであると思う。
より正確に物事を伝えるならば、共通の理解がなくてはならない、一定の理解を共有することが必要だと考える。当事者同士が同じ言葉に対して同じ意味を含んでいるということだ。 同じ言語を母国語として扱うもの同士であればいいというわけでもない。同じ言葉を2人以上に与えて、その説明をさせたり、絵をかかせたりすると、一目瞭然だろう。私たちは辞書の内容を丸暗記している訳でもないし、辞書によっても様々だ。そして、正しい意味とは異なる使い方をされているものだってある。意味なんてとても曖昧で、言葉による表現とはそれくらい適当なのだ。
コミュニケーションにおける表情や動作といった視覚的効果
表情や動作に表わされる意味は更に曖昧だと思う。言葉は一応、いくつかの枠で同一の形をとっている。表情や動作には辞書なんてものはないし、形や角度の規定なんてあるものではない。そもそも、表情や動作をなす人が違うので、なおさら適当ではないか。言葉によって補われたり、言葉を補ったりにはなっている。言葉より表れやすいかもしれないが、雰囲気での判断しかできない。
国内に見る異文化
言葉も表情も動作も後天的に経験上から判断をゆだねられるものである。同じ日本人であっても、育ってきた環境は家ごとに様々だ、性別も年も、都道府県も違う、となれば、当然違いがあるのだ。この違いをわかりやすく見られるものは、「秘密のケンミンSHOW」というテレビ番組だろう。方言だけでなく、食文化や、人の対応にも表れる違いを都道府県や地域毎の特色として、紹介している。その異なる環境のなかで生まれる価値観や常識、「普通」は違ったものになる。これを逆に取ると、近しい境遇であると価値観や常識、「普通」が似たような形に形成されるはずだ。当然、100%寸分違わぬ理解を得ようなんて毛頭思ってないはずだ。こうして、コミュニケーションは成立しているのだろう。
コミュニケーションに現れる価値観や常識、「普通」という概念
価値観や常識、に現れる「普通」という概念は特に曖昧極まりない。
例えば、テストで98点を取った子Aと2点を取った子Bがいる、喜ぶのはどちらか。テストは高い点の方がいいと考えれば前者が喜ぶはずだが、その子は普段ずっと100点を取っていた、となると喜べるはずがない。Bについても、普段ずっと0点を取っていたら、2点だって喜べるのだ。この場合、Aの普通は100点だが、Bの普通は0点だ。既に、「普通」の違いが現れた。他にも、そもそも点が高いほうが良いという考えが間違いだったり、低い点をとろうとしていたとか、一定の点数を狙っていたとか。これも先にいう前提条件にあたいするだろう。さらにこのテストにAB以外に4人が参加していたとしよう。平均点が80点だった場合、Cが100点、Dが100点、Eも100点、Fが80点だった。普通は多数派のACDEか平均のFか。
このように見られる「普通」の差違。価値観や常識も含め、これらの概念は全て、人として、人生を送っていく上で環境に依存して形成される後天的なものだろう。一言に「環境」とまとめたがこれは現在いるその場の状況だけに依存するわけではない。その状況が形成されるに至る歴史的背景や変化全てを含めて、今のその環境に現れる。そのすべてに依存するのである。一代で築かれた慣習から遥か何千年の昔からの風習に従うものまで全てによって差違があるのだ。すると、やはり誰一人として同じ境遇や環境を共有することはない、よって、価値観も常識も「普通」も誰一人一致しないのだ。
先のテストの例には、価値観や常識、「普通」という後天的に形成される概念とはまた別にその当時の心情と言うものも関係するだろう。特に、この辺の理解は判断しがたい。しかし、コミュニケーションにはこれを理解する必要があるのだ。
国家という異文化における言語コミュニケーション
ここでようやく国家という異文化、外国人とのコミュニケーションにおいてを考えよう。通常異文化とはこの場合をさすだろう。違う国、違う言語、違う文化圏だとどうなるのだろうか。普通に考えて、先の例より、より大きな差違が生まれるだろう。まあ当然、一切わからないような言葉同士でのコミュニケーションなんて不可能に等しいだろうで、そこで、人は外国語を学ぶのだ。
例えば、「私は、学生です。」と日本人が自分を指差していうとしよう。英語で「I am a student」と訳すだろう。ここで生まれる違いは、文章はさておき、まず動作から、日本人は、自分を指す時、人差し指で鼻を指すらしい。欧米では、親指で胸を指すとか聞いたことがある。この差違に大きな誤解を生む不安はあまりないと感じるかもしれない。しかし、これは同じことを指すのに対し、違う表現が行われるということだ。言葉が通じないのなら身振り手振りを交えてという考えもある。しかし、「こっちにおいで」という動作が別のところでは、「あっちに行け」という表現だったりするのだ。
次に、言葉について、私が気になるのは「学生=student」というあたりだ。学生とは、大学や高等専門学校などに在籍する者、Studentは教育機関で学ぶものという意味のようだ。日本人は中高生をさしても学生というが、誤差の範囲内で意味の差が表れてくる。そもそも、学校自体の制度や環境に違いがあれば、なお複雑になる。そして、英語に訳したものを再び日本語にするとしよう。英語のaの単数という意味もいれて「私は、一学生(もしくは生徒)です。」とすべきか。この違いを恐れるなら、より多くの言葉を付け足さなくてはならない。例としては大した違いは出ていないが、翻訳機で文章を再翻訳してみると、とても面白いことになる。もし仮に、私の話した言葉が再翻訳後の言葉として理解されていたら。ここに生まれる差異が私はとても不安だ。外国語を話すにおいては文法や発音とかそれ以前の問題が重要だと考えるのだ。当然、同じ言語を話していてもしかり。
他にも、日本には外来語がとても多い。普段カタカナで使っている言葉は本来の外国語の意味とは少し異なるものもある。日本語の感覚でそれを外国語として使えば、差異は更に広がる。
異文化による差違
そして、国民性というか、性格も異なるだろう。日本人の謙虚さというところか「つまらないものですが」という言葉、そのまま外国語にして言えば、「つまらないものならいらない」という展開になると聞いたことがある。英語だと「I hope you'll like it」とか、中国では逆に、努力や価値を強調する。どちらも日本の様にへりくだっては言わないようだ。遠慮というようなものも同じだろう。言葉を一対で訳してしまうと、その言葉の表現する本来の意味が見えてこなくなってしまうことがこれだ。他にも、日本ではふつうに行っている動作が外国ではよくないこととされているとか、同じ動作が表現する意味が違っていたり。笑っているだけで捕まってしまうという様な条例がある地域があると聞いたこともある。習慣とか文化とか感覚的で、経験から得るようなものは、一つの感覚をもってしまうと、それと異なる感覚を理解することが難しくなる。文化や習慣は、気候や地理などの環境に適応していく形で、歴史的な背景をも経て形成されていくもので、そうして形成されてきた環境や文化圏に依存して、国民性などと言う差に表れるのだろう。
正直、こんなことを考えていては、外国人はおろか知らない人、知っている人とも接することができなくなってしまう。
結果、異文化コミュニケーションはとても難しいと言っているようにも見えるが、上で述べているように、同じ言葉で同じ文化圏であろうとコミュニケーションは簡単ではなさそうだと思っている。言葉だけではなく相手の価値観や感覚を考えることが大切だろう。そして、経験を積んでいく上で「こうなんだろうな」というような理解が見えてくるのだろう。
異文化への適応
私はかつて、国際共通語があればと思ったことがある。今は、英語が共通語とされるが、そのように、ある地域の言葉を世界の共用語とするのではなく、どの既存の言葉ともない全く別の言葉があればと。英語を共通とすると、英語圏の人、英語が母国語の人に有利というか、不公平なのだ。とはいえ、世界のあらゆる感覚を一つの言語に集約し、それを理解する過程は、その言語の作成からすべてとても大変だ。それに、地域や文化が異なるから結果やはり派生してしまうのかもしれない。それでは意味がない。なので、考えるのをやめた。
コミュニケーションの前提と5感による認識
「一定のものに対して、既に共通の理解を有していること」を前提条件と挙げたが、そもそも、それ以前に、一個人内での認識が必要だ。人々の感覚を司るのは5感である。このどれか一つでも欠けた状態を想定したことがあるだろうか。例えば、聴覚がない場合(同時に話せない)、視覚からに依存するだろう。ここでの「ない」とは、失った場合ではなく、最初から存在しないこと。聞こえず話せずとも、言葉を視覚から判断する事は可能だ。しかし、音の上下など体感したことのないことをどうやって理解するのか。視覚のない場合は、さらに困難だ。例えば、「ピンクってどんな色だっけ?」となれば、「赤を薄くした感じ」とか、これには「赤」や「薄い」が理解の前提条件となる。元々存在しなければ、脳内のイメージもわかないと私は考えるのだ。触覚も嗅覚も味覚もしかり、このような状況を私は持ち合わせていないので、当然理解できない。しかし、この境遇をもってしても、理解を与えるものがコミュニケーションにおける成功を意味するだろう。先の<「言葉」という概念>にあげた幼稚園前に言葉を理解しているという点から、当然生まれてすぐには言葉や常識もいっさいなかっただろう我々が何をもって両親などとコミュニケーションを可能にしたのか。幼児が0から物事を認識・理解していく過程もまさに、異文化コミュニケーションに値するのだろうか。この場合は、文化が形成されておらず、認識も理解も存在しないのか。存在しないのなら、異文化にもコミュニケーションにも値しないのか。私の頭では、理解の到底至らないばかりだ。
コミュニケーションにおける理解と異文化
以上様々な例を用いたが、私はコミュニケーションにおいて、絶対の理解、正確な伝達は不可能だとも思っているので、曖昧さが逆によりよい理解を生むと思う。現代では、様々な言葉の辞書も翻訳もあるし、文化や習慣だって形として示されている。それを見て知ることができる。例えば、はるか昔、まだ言葉が成り立っていないとき、知らない人とどのように打ち解けていったのか。きっと、言葉も文化も見た目も全く違う、言葉も一切通じないような人と出会って2人でなんとかしてみると、異文化コミュニケーションということがよりよく理解できるのだろう。こう考えるととても、異文化コミュニケーションは大変な気がしてくるが、実際、辞書にも載っていない言葉を私たちは話している。現代語やギャル語などの新たな言葉が生まれて、理解できないと言われたり、逆に死語と呼ばれるものがあったり。
環境が違えば文化は違う。私と今隣にいる人だって十分「異文化」と言えるだろう。昔はなかったものが今は必需品になっていたり、当時イケていたものが今ダサかったり。自分たちが生きている中でも、文化は日々変化していくものであって、自分だけでも十分「異文化」と呼べる価値観の違いや環境の変化を体験しているのである。こう考えてみると、何一つ通じるものがなくてもわかりあえるのかもしれない。